La Traviata 〜椿姫〜


第3話 過ぎし日よさようなら

音もなく降る雨の中、は唯呆然と立っていた。
本来なら和樹を追いかけて、労わってやらなくてはいけなかった――が、出来なかった。
その心を支配する感情が何物なのか、わからないではない。
嫉妬。
そういう名の醜い心だ。
今、和樹を追いかけたら、この自分の醜い心で純粋な和樹を汚してしまう、そんな気がして足が竦んだ。
「……あれ、君、火原先輩は?」
不意に背後から香穂子の声がして、は反射的に振り返った。
一つのビニール傘に寄り添うようにして入っている香穂子と柚木。
じわりじわりとの中の暗黒の炎が大きくなる。
「……柚木先輩、あんたなんのつもりだ?――あんな……っ」
「う……ん、何のことかな?」
反射的に、は柚木の胸倉をつかんでいた。
「……っざけんな!」
「きゃっ!」
ビニール傘が風に煽られて飛ばされる。
傘の影から現れた柚木の瞳は挑戦的なまでに冷たい。
柚木は冷酷に、だが優雅にため息をついた。
「――まったく。……わからないのか?教えてやったんじゃないか……火原に、身の程をな」
「なんだと!」
柚木は無造作にの手を払うと、鼻でせせら笑う。
「お前もだ、。いい加減気が付けよ、お前の身の程ってやつに」
「なっ……」
ひやり、との首筋に雨粒が伝う。
冷たい棘が、の心臓を貫いた。

冷たい雨の中を、和樹は唯走っていた。
電車の駅の一駅か二駅分は走ったかもしれない。
ゆるゆるとスピードを緩めると、ひざが震えているのがわかった。
汗と雨で張り付いた前髪をかきあげて、空を見上げる。
薄暗い雨雲が、あんなに青かった空をすっぽりと包んでいた。
……置いてきちゃったんだよな……」
和樹はその形の良い眉を寄せると、深いため息をついた。
「おれって……サイテーかも」
彼女の幸せを願ったはずが、勝手に嫉妬して、あげくに大切な友達をおいて逃げ出した。
和樹は自己嫌悪に居た堪れなくなり、目の前にできた水溜りを勢い良く蹴り上げた。
水面に写っていた自分の顔が、醜くゆがむ。
「……まるで、おれみたい」
走って、走って、冷静になって後悔した事が、あんな醜態の中で唯一つの事なんて。
しずくが落ちるたびにゆらゆらと揺らめく水面。
和樹は、もう一度水面を蹴り上げた。


「え、今日来てないって……それホント?月森君」
2年生のクラスの前で、和樹は思わず声を上げた。
「ええ。珍しい事だし、今度の実技テストの課題の事でどうしても必要があって先ほど電話したんです
が……の声と思えないほど枯れていましたから、体調を崩しているのは本当みたいですね」
月森も動揺こそしていないものの、の欠席を心配していた。
クラスで少しばかり特殊な存在である月森は、その性格も手伝って親しい友人と言うものが少ない。
しかし、不思議ととは気があった。
もともとは抜群の音楽センスを持ち、頭の回転も速い。
中でも専攻している声楽の実力については飛びぬけていたし、また境遇も似通っていた。
そして1年の頃から同じクラスという事も手伝って、時間が合えば興味深く音楽論を戦わせる間柄にな
った。
は普段から体調管理などにも気を配り、音楽者としても友人としても月森の尊敬できる存在であ
る。
だからこそ、月森は今回のことに違和感を持っていたのだ。
「そっか……」
「何か、あったんですか?」
月森の詰問口調の質問に、和樹は僅かに感じた動揺を悟られないよう視線をそらせた。
「えっと……多分、この間息抜きに出かけたときに降られた雨が原因なんだと思うけど、そのときおれ、
途中で別れちゃったから……」
「……」
月森は暫く和樹の瞳を観察した後、組んでいた腕を解くとため息をついた。
「ちょっと待っていてください」
「え?うん」
月森は踵を返して教室に入っていくと、机から一冊の楽譜を取り出して戻ってきた。
「これを、に渡していただけますか?」
「え、これ……」
「次の授業の課題の楽譜です。声は出せなくてもベッドの中でも譜読みくらいはできるでしょうから」
月森は半ば強引に和樹に楽譜を押し付けると、吐息をついた。
「行って、ついでに様子を見てきて貰えませんか」
月森が有無を言わさぬ口調でそう言うと、和樹は小さく頷く。
「あ、うん……」
「それじゃ」
予鈴と共にそういうと、月森は再びクラスの中に消えていった。


放課後、和樹は見慣れた、しかしここ数年訪れて居なかった家の玄関の前に立っていた。
表札には「」とある。
和樹は何度も呼び鈴に指をかけては離し、またかけては離すという事を既に5分ほど繰り返していた。
の家は両親が仕事で海外に居る事も多く、また3つ上の兄も海外に留学しており、家にはほぼの一人暮らしといった状態であった。
週に何度かは家政婦さんが来ているとは言っていたが、それがいつのことか判らない。
もし、家に以外誰も居ない時であれば、体調の悪いを起こす事になってしまうと思うと、
なかなか呼び鈴を押す事に踏み切れないのだ。
「こまったなぁ」
和樹はトランペットケースを抱えなおすと、途方にくれたように頭をかく。
と、同時に、家の玄関が唐突に開いた。
そこから現れる細身の人影。
「あら……?もしかして、和樹君?」
玄関先から40代ほどの綺麗な女性が顔を出し、和樹に声をかけた。
「あ、どうも!おばさんお久しぶりです。ええと……、起きてます?」
女性は和樹を見て微笑むと、軽く頷いた。
「ええ、少し前から。今は熱も引いて落ち着いているわ。もしよければあがっていって。あの子、起き
てからは退屈みたいで時間をもてあましてるのよ」
そういっての母親……美琴はクスクスと笑った。
「私が居てあげられればいいのだけど……来週のコンサートの為に、どうしても今日ウィーンに立たな
くてはいけなくて。よければ少しあの子の相手をしてもらえないかしら」
和樹は美琴の言葉に頷くと、彼女を見送ってから、数年ぶりにの家に足を踏み入れた。
数年前と変わらないシックだがセンスのいい調度品やソファーの脇を通り、見慣れた階段を上る。
階段を上りきった先の角の部屋がの部屋だったはずだ。
和樹はそろそろとの部屋の目の前に来ると、遠慮がちにドアをノックした。
「……ん?どうしたの母さん。忘れ物?」
部屋の中から小さく掠れたの声が聞こえる。
和樹は一瞬躊躇った後、意を決したように木製のドアを押し開いた。
「ごめんね、。おばさんじゃなくて……」
「……え?和樹先輩?」
は突然訪れた和樹の姿を見ると、わずかに驚いたように横たえていた身体をベッドから起こした。
「あ、いいよ。調子悪いんでしょ?横になっててよ」
和樹はあわててを制すると、ベッドへ近づく。
「月森君からね、楽譜預かってきたんだ。今度の課題で必要だって聞いたんだけど」
「それでわざわざ?気を使わせちゃってごめん」
は両肩を落とすと、申し訳無さそうに頭をかく。
「いやいや!謝るのはおれの方だよ。その風邪だって……おれの為にひいちゃったようなもんだろうし
……ほんと、ごめんね」
和樹はそういって項垂れたように視線を落とした。
「いや、和樹先輩に恐縮される事じゃないよ、これはオレの管理ミスだし……心配かけてごめん」
「だってそもそもおれが……あー、なんか謝る事ばっかだな。ホントごめん」
そう言って和樹がふとを見ると、心なしかの瞳が笑っている。
「なんか、さっきからオレたち謝ってばっかりだよね」
かすれた声でにそう言われ、和樹もほんの僅かに笑う。
「ほんとだ」
和樹は楽譜の入ったファイルを手渡すと、ベッドの脇に腰をかけた。
「先輩こそ……その、もう平気?」
暫くの沈黙の後、は躊躇うように口を開く。
「ああ……」
和樹は曖昧に返事をしながら、窓の外に視線を移した。
「あれから色々冷静になって考えたんだけど……実はそんなに傷ついてるとか、なかったんだ」
和樹の睫毛が三度瞬く。
「確かにちょっと驚いてはいたんだけど、逆になんかすっきりしたっていうか……吹っ切れた」
「先輩」
「本当にね、良かったと思えるんだよ。確かに日野ちゃんの事は……憧れてた。でも、そういうの、多
分恋とかとは違うんじゃないかって気がついたんだ」
そういうと、和樹は窓に向けていた視線を自分のひざに落とした。
まるで壊れてしまいそうに儚い沈黙が二人を包む。
けれど壊せそうで壊せない、薄氷を渡るような静寂。
アリア1曲分ほどの沈黙の後、の吐息がその緊張を解き放った。
「……よかった」
「え?」
「先輩が辛い思いしないなら、それが一番いい」
?」
「和樹先輩はさ、オレと違って純粋で綺麗だから……きっと沢山傷つく事、あると思う。けど、オレは
悔しいけど何もしてあげる事ができないから」
そういうと、はふわりと微笑んだ。
「……先輩がオレのせいで穢れなくて、よかった」
「……っ」
和樹は一瞬、この青年が目の前から壊れていなくなってしまうという錯覚にとらわれた。
こんなに近くに居るのに、まるで手の届かない存在になってしまうのではないかという切迫感。
の微笑みはいっそ悲壮なまでに綺麗で、儚い。
和樹の心臓は締め付けられるようにキリリと痛んだ。
「……なんで、そんな事いうの」
自然と、強い声音が漏れた。
じっとの瞳を見つめる。
は和樹の視線に耐え切れず、指先が白くなるほどきつく布団を握り締めた指先に視線を落とした。
「おれは……和樹先輩と違って……こころ、真っ黒なんだ」
ぽつり、との唇から弱弱しい言葉か零れる。
「おれは和樹先輩が幸せになればそれでいいって……そう思っていながら、本当は心の隅で……薄汚く、
そのことに嫉妬してる」
ぽとり、と一滴の雫がシーツをぬらす。
「おれ、卑怯なヤツなんだよ……」
「ばか」
不意に降り注いだ、怒ったような和樹の声色にの体がびくりと震える。
「軽……蔑するよね」
「あのさ、
和樹は怯えたようなの肩をつかみ視線を合わせると、くしゃり、と乱暴に髪を撫でた。
「軽蔑なんてしない。の心は汚くなんかない」
「でも……」
「それならおれのほうがよっぽど汚いよ」
和樹はそう言って僅かに睫毛を伏せたが、思い切ったようにの瞳を見つめた。
「おれね、さっきあんまり傷ついてないって言ったでしょ。確かに動揺したし、ショック受けたような
感じしたよ。でも、あの後雨の中一人で走って、後悔した事ってさ……全部日野ちゃんのことじゃない
んだ」
の涙に濡れた漆黒の睫毛がゆっくりと瞬く。
「おかしいよね、日野ちゃんの事でショック受けたはずなのに。でも、違うんだ。後悔したのは全部…
、きみのことだったんだよ」
そういうと、和樹はきつく眉根を寄せて口の端を吊り上げた。
を一人きりで置いてきてしまった事、あんな動揺を見せちゃった事、日野ちゃんの事をすきだ
って話してしまったこと……そんなことばっかりなんだ」
「先輩……」
「自分の気持ち、知らず知らずのうちに騙してたんだ、おれ。本当は日野ちゃんたちのこと、羨ましい
って思ってたんだって、やっと気がついた。柚木が気づかせてくれた。卑怯なのは、全部おれなんだよ。
いつも側で励ましてくれるの気持ちの上に胡坐かいてさ……最低だよ。だから……謝らなくちゃ
いけないのは全部おれ。だから……ごめん」
の頬を伝った涙の音さえ聞こえてきそうな静寂が二人を包む。
時計の音さえも耳には届かない。
「おれ――、が……好きなんだ」
まるで、初めてその名を呼ぶように、たどたどしくそう呟いた言葉が静寂に溶けた。
「もう、間違えないから……守りたいんだ、きみのこと」
ふわりと背に回された腕は強く、しかし優しくを包む。
「守らせてくれる?」
和樹の言葉に、はただ瞳だけで頷いた。


ー!」
「んあ?」
は玉子サンドを頬張りながら、今しがた開け放たれた屋上の鉄製のドアに視線をやった。
扉の陰から、声の主である和樹が駆け足で飛び出してくる。
「ごめん遅れて!」
漸くのそばまでたどり着くと、和樹は息を切らせながら両手を合わせて謝った。
「お疲れさん、また柚木先輩のパシリ?」
「そ。うー後1日だよ」
和樹がガックリと項垂れると、はすっかりと調子の戻った耳障りのいいテナーで快活に笑った。
「ま、柚木のおかげできみとこうしていられるんだし、後1日がんばるよ」
和樹はそういうと、笑顔で青空に向かって伸びをした。
「わざわざ大変なのに、一緒に食事しに来てくれてサンキュ」
「違うよ、おれが会いたいの!」
顔を見合わせて、二人は再びカラカラと笑った。

悩み多き過ぎ去りし日よ、さようなら
願わくば、幸多き日が二人を照らしますように……。


END

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