MORNING×MORNING

3月11日

外は小降りの雨。
客足は少し遠のく。
いつもの4分の3ほど。
通勤ラッシュ少し前の、サラリーマンの朝食タイム。
僕は店内をオーダーを取りに回る。
まだまだ雨が降ると寒いのか、暖かいメニューがチョイスされる。
僕は数人分のオーダーをいっぺんに書きなぐると、残りの客へのオーダーを取りに行こうとした。
「おい、葦!残りのオーダーは俺が取っとくから、お前は餃子の蒸し具合を確認しろ!」
僕の足が再び厨房を出ようとした時、オーナーの怒鳴り声が聞こえた。
僕はちょっとだけ残念な気がしたけれど、オーナーのオーダーでは仕方が無い。
「はい、張さん」
僕は僅かに溜息をつくと、オーナーに向かって了解の意を示すように軽く頷いた。
別に、料理がきらいな訳ではない。
むしろ最近になってやっと厨房を任されるようになった新人の自分としては、料理をしている時間は本当に楽しいと思う。
自分の手で食材たちが料理に変身していく。
そんな過程を見ていくのは楽しかった。
僕は勘定表をレジ横のテーブルに戻すと、手を拭って厨房へ入った。
入る直前にチラリと横目でホールを見回す。
彼はいつものように新聞を片手にメニューも見ずにお決まりのオーダーを注文すると、再び新聞に視線を落とした。
そんな様子をみて、少しだけ、浮上する心。
僕はいつものようになべを振るった。



3月23日

今日は大ぶりの雨。
客はいつもの半分程。
今日は店内に人影がまばら。
僕はいつものようにメニューを持ってオーダーを取りに回る。
オーナーは客足の少ない今日のような日にやる気を出すことが出来ないと見て、オーダーも僕に任せきりだ。
僕は勘定表を取り上げると、オーダーを取り始めた。
蝦餃、韮菜餃、蝦腸粉、皮蛋痩肉粥、?魚球粥、油炸塊、浄雲呑、招牌雲呑麺……。
僕はいつものように僕にしか読めないような文字でオーダーを書きなぐると、最後の客のオーダーを取るべくテーブルに近づいた。
「ご注文は?」
「蝦餃と茘湾艇仔粥」
彼はチラリと新聞から目を離して相変わらずメニューも見ずにそう答える。
茘湾艇仔粥とはくらげ、するめ、落花生、ネギの千切り等いろいろな具の入った粥の事だ。
蝦餃は海老の入った餃子のこと。
僕は笑顔で『いつものですね』と答えると、彼は僅かに笑って頷く。
いつものように僕は勘定表をレジの横に差し込むと、厨房へと入った。
蒸し器の具合を確めて餃子を出し、粥に薬味を乗せて、湯の具合を見る。
今日の気分は最高だった。



4月20日

快晴。
そろそろ太陽の光が眩しいころ。
スーツ姿のサラリーマンはネクタイを緩めると、ジャケットを片手に歩いている。
本日は大繁盛だった。
当然のことながら僕は厨房を離れることが出来ず、だたひたすら餃子の蒸し具合と、湯の火の具合、粥の味付けなどに追われていた。
20人?30人?どれだけの粥を器に盛り、どれだけの麺を茹で上げただろう。
やっとピークが過ぎたのは、そろそろ10時の半分を過ぎた頃だった。
僕は厨房から這い出て、レジ台に身体を預けた。
ふわりと風が通り、厨房の熱気を吹き飛ばしてくれる。
僕は軽く目を閉じた。
カタン。
不意に足音がして、僕は素早く瞼を開いた。
「あっいらっしゃいませ!」
僕は飛び上がるようにして立ち上がると、入り口に目を向ける。
入ってきたのは、いつもの彼。
「あ……今日はいつもより遅いですね」
僕は彼を席に促すと、勘定表を持って彼に近づく。
「会議でね」
彼は僅かにネクタイを緩めると少し笑って頷いた。
「今日もいつものを?」
「ああ」
僕は勘定表に『蝦餃と茘湾艇仔粥』といつもより若干丁寧に書き込むと、それをレジ台の横に挟み込んだ。
いつもと同じように蒸した蝦餃の蒸篭をいつもより丁寧に皿に乗せ、いつもと同じ味付けの茘湾艇仔粥をいつもより少しだけ多めに器に盛り、いつもより多めの薬味を乗せる。
オーナーはいつものように店内には居ない。
「おまちどおさま」
僕はそれらを乗せたトレイを持ってテーブルに近づくと、彼の前にそれを置いた。
彼はいつも片手に持っている新聞を持っておらず、代わりに企画書のような書類に目を通していた。
「ありがとう」
彼はそう言って微笑むと、いつものように優雅に粥を口に運ぶ。
僕はただそれをレジ台から眺めていた。

「何か、あったのかい?」
突然、支払いを終えた彼が僕にそう聞いた。
「えっ?」
僕は思わずつり銭を取り落としそうになり、慌てて小銭を握り締めた。
「なんだか、君の様子がいつもと違うから」
彼はそう言ってつり銭を受け取りながら穏やかにそう言った。
僅かに触れた彼の手の平はひんやりとしていて、思わず心臓が踊る。
「あっ、ええと……はい、僕……店を換わることになったんです」
ドクン、ドクンと心臓の音が嫌に煩く耳に響く。
こんなに哀しいのは、この店から離れることが嫌だからなのか、それとも……彼に会えなくなるからだろうか。
「一度この店に食べにきてくれたオーナーが、新しく出す飲茶の店を僕に任せたいと言ってくれまして」
「そうか、いわゆる引抜というやつだね」
「……はい」
「新しい店は?」
「尖沙咀……彌敦道の『翠苑記』という店です」
「そうか、それはありがたい」
ありがたい?
この店から僕がいなくなる事が、だろうか?
僕の味はそんなに彼の口に合わなかったのだろうか?
「彌敦道は僕の自宅の近くでもあるから、今よりも行き易くなるから」
予想外の言葉に僕が彼をぽかんとして見上げると、彼はいつもより少しだけ嬉しそうに笑っていた。
「え?じゃあ……」
「この店には、僕の会社の取引先があってね……『香港光明公司』という所なのだけれど」
その会社はこの店の裏……いや、規模からすれば『香港光明公司』の裏にこの店があるのだけれど、とにかくご近所の会社だ。
稀に客から妖しげな噂を聞く事もある。
僕が頷くと、彼は様々な書類の入ったプラスティックケースを軽く持ち直して見せた。
「そこに営業に来た時にここを知ってね。それ以来通わせて貰っていたのだけれど、正直な話ここまでは結構な距離だから」
そう言って彼は照れたように笑う。
彼は毎日、僕の粥を食べる為に自宅から離れたこの場所に通ってくれていたのだ。
僕は思わず顔が赤くなるほど恥ずかしくなって、その場に俯いた。
「尖沙咀といえば、かなりの繁華街だね。君の料理が世に広まるのは喜ばしい事だけど、ファンとしては、少し寂しい感じがするな。僕だけが知っているという優越感がね……ああ、すまない。これは僕の勝手な意見だな」
「いえ!あっあの……ありがとうございます!」
ピピピピピピ……。
突然、店の中を軽快な電子音が響いた。
「おっと、もうこんな時間か。これからまた仕事なんだ。……向こうにはいつから?」
「来週です」
「そうか。では……また来週」
彼はそう言うと、携帯電話を片手に颯爽と店を出て行った。
火照る頬に風が気持ちいい。
僕の味を好きといってくれた。
少しは期待してもいいのだろうか?
口元が緩む。
『また』
その言葉がどれだけ自分を浮上させるか、彼は知らない。
憂鬱な気分が吹き飛んだ。
来週が待ち遠しい。

僕は最高の気分で厨房へと戻った。


おまけ

「……最高だわ!最高よユージィン!さすが目の付け所が違うわね!」
「僕はただあの腕のいい若い料理人が、こんな店でうだつが上がらないのを見ているのに忍びなかったんだ。あんなオーナーの元で働かせるのには惜しい腕だよ」
「そんな事よりも、よく尖沙咀なんかに店が持てたわね」
「僕に出来ない事なんか無いね。ちょっとばかり多めに投資をしただけさ。まぁ、払った元手はすぐに取り返せるさ、あの腕なら」
「そんな事じゃないわよ!どうしてあのサラリーマンが尖沙咀に住んでいるってわかったの?」
「何を言ってるんだよ、ロータスが何とかしろって言うから調べたんじゃないか!」
「だって……あんなにいい男が思いを叶えられないなんて可愛そうでしょう?」
「……それは料理人の腕の事なのか、それとも深読みした君の妄想の事なのか……」
「両方よ。大体妄想なんかじゃないわ、これは乙女の勘よ」
「乙女、ね……」
「なによ、貴方は料理店を開いて繁盛。私は彼らの行く末を見守る。最高の舞台が整ったじゃない」
「まぁ、そう言うことにしておくよ……」

*****

この小説の舞台は涼澤の心の友(と書いて親友と読む)サッカリンさんのオリジナル小説の舞台をお借りして書かせていただきました。
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