T.ブッシュ・ド・ノエル:10年後 山本武 |
雪がちらほらと舞い落ちている。 まるでそれは白い羽のようにやんわりと空を舞い、音もなく地面に降り積もっては消える。 は分厚い窓の外を、飽きることもなく眺めていた。 吐息を吐く度に、窓が薄く白く曇る。 その白さと薄く色づいた頬のコントラストが絶妙に美しい。 山本武は、部屋に入った瞬間一番最初に目に入ってきたその光景に、思わず見とれながらぼんやりとそんな事を思った。 「寒くないか、そんなところに居て」 たっぷりと2秒ほど見つめた後、そう言葉を漏らす。 その声に、初めてがその視線を室内へと移した。 「おかえり、武」 その視線が自分を捕らえ、その瞬間に艶やかに咲き誇る笑顔に武はクラクラした。 何度見ても慣れる事のないこの脳が沸騰するような感覚に、いい加減武は苦笑したくなる。 と出会って、既に9年。 もうそろそろ慣れてもいい頃だと思うが、そうもいかない。 それは偏にの魅力の為せる業なのか、それとも彼に惚れすぎている自分の所為なのか。 恐らくはその両方なのだろう。 武は唇に浮かびかけた苦笑を抑えると、大股でに近づく。 「何を見てたんだ?」 「ん?そうだな、世界情勢」 はそう言うとにやりと唇の端をあげる。 その彼の醸し出す雰囲気とは全く対極な返答の色気の無さに、武は今度は遠慮せずにその端整な顔に苦笑を浮かべた。 「ま、想定内の答えだけど、本当に色気ねーのな」 「そりゃ悪かった」 は言葉とは裏腹に別段気にした様子も無くそう言って笑う。 「なんか……きな臭い匂いがしてな。ま、唯の予感だけど」 そう言うと、真顔に戻ったはその指で窓を撫でる。 「唯の予感だろ?」 武はそう言うと、を後ろから抱きすくめた。 ふわり、とのシャンプーの香りが鼻孔をつく。 武はその髪に柔らかく口付けた。 細い、だがしっかりと鍛えられたやや骨ばったの肩を、離れないようにしっかりと抱く。 「そうだな、唯の予感だ。当たらない、きっと」 は小さく吐息だけで笑うと、武の手に自らの手を重ねた。 自分のものよりいくらか大きいその手は、僅かに冷たい。 「そうだ、武。今までどこに行ってたんだ?」 「んー、買い物」 「買い物って……もう、殆ど店閉まってただろ?」 は驚いたように武の瞳を見上げる。 イタリアではクリスマスイブの24日には、殆どの店が閉まってしまう。 開いている店も午前中には閉まってしまうし、その僅かに開いている店に買い物客が押し寄せるので町全体が雑然とした雰囲気になる。 そして、それが過ぎるとその人影すらまばらになるのだ。 「ああ、イタリアっていったらクリスマスの本場だし、日本以上に賑わってるのを想像したけど、どっちかって言うと大晦日みたいな雰囲気なのな」 「まあ、そうだな。で、お目当てのものは買えたのか?」 「ははっ、買えなかった!」 そう言うと、武は豪快に笑う。 「何が欲しかったんだよ」 「アレだ、ほら日本にあるだろ?切り株みたいな形のクリスマスケーキ」 武は抱いていたの肩を離すと、身振り手振りを交えながらそう答える。 「ああ……ブッシュ・ド・ノエル?」 「ああ、そんな名前だったな。まあ、折角のクリスマスだしさ」 そういうと武はその相貌に屈託の無い笑みを浮かべた。 「お前……仕事しに来たんじゃないのか?」 が呆れがちにそういうと、武は微笑を浮かべたまま頭をかく。 「ちゃんと仕事してるぜ。ツナから『の様子を見て来い』って頼まれてるからな」 「………」 は思わず日本に居る優しい従兄弟の顔を思い浮かべた。 これは事実上の休暇ということに他ならない。 僅かの逡巡の後、はこの従兄弟の優しさに甘えることにした。 これはツナからの最高のクリスマスプレゼントだ。 「ったく、ウチのボスも甘いな」 「でも、そんな所が気に入ってるんだろ?」 「まぁな」 は微笑を浮かべながら笑う。 「……じゃ、ツナのお言葉に甘えてケーキでも食うか」 「ん?でもオレ、結局ケーキ買えなかったぜ?」 の言葉に、武が申し訳なさそうにそう告げる。 「ああ、イタリアではこういうのを食べるんだ」 そう言って笑いながら、は出窓から小ぶりのバケツほどのケースを取り上げた。 形はシフォンケーキのそれに似ているが、それよりも重量がありそうだ。 「これは『パネットーネ』。イタリアでは代表的なクリスマスケーキなんだぜ」 中にはレーズンがたっぷりと練りこまれ、ケーキと言うよりはパンに近い食感かもしれない。 これに、粉砂糖をまぶして食べるのだ。 「なんだ、用意してたのかよ」 武は、嬉しそうにそう言う。 「ああ。お前が来ると聞いてたからな。焼いておいた」 「えっ?!お前が焼いたのか?」 の意外な言葉に、武は面食らったように思わずそう質した。 「なんだよ、不満か?これでもイタリア料理の腕は意外といけるんだぞ?……和食はからきしだけどな」 「いや、違う違う!」 少々気落ちした様子のに、武はあわてて手を振りながら訂正すると更に笑みを深くする。 「逆、嬉しいんだって!……サンキューな」 武の言葉に、は僅かに照れたように微笑む。 「よし。じゃ、箱から出してこの袋に入れて」 「よっしゃ」 「で、この粉砂糖を入れて……振る」 「ん、こうか?」 香ばしい狐色のケーキに、雪化粧が為されていく。 ふんわりと白く色づいた頃、袋から取り出して手際よく切り分ける。 「ほら、食べてみろよ」 差し出された一切れに、武は豪快に被りつく。 「……旨い!」 ふんわり甘いケーキの味に、思わず感嘆の言葉が漏れた。 たっぷりと練りこまれたレーズンの歯ざわりが心地いい。 「そっか。良かった……って武、顔に粉付いてる」 はそう言って微笑むと、武の頬に付いた粉を優しく払う。 「ははっ、オレガキみてーだな」 「全くだな」 そう言いながら微笑みあう。 こんなクリスマスは何年ぶりだろうと、は思う。 ここ2、3年は色々とあって、こんなに穏やかな時間などを過ごす事は出来なかった。 新興勢力との抗争や、抵抗勢力の拡大。 も武も、世界中を飛び回っていた。 「来年も……一緒に居られるといいな」 ぽつりと、思わず零れた言葉に、誰よりも本人が驚く。 こんな仕事をしていて、こんな人並みの幸せを願う日が来るなんて。 願っても、得られえぬことだと思っていた。 「んー……」 の言葉に、武は思わず口ごもる。 「ああ、いや……ただの、オレの希望さ。深く考えないでくれ」 の言葉は、武の負担になる。 武は、それがの望みなら、きっと何に変えても無理をしてでもそれを成し遂げようとしてしまうだろう。 だから、は「約束」などという余計な面倒を背負わせたくないのだ。 一緒に居られるときだけ、一緒に居られればそれでいい。 今までもそうして来たし、これからもそうしようと決めていたというのに、不覚にもこんなことを口走ってしまうとは。 このいくらかぶりの穏やかで幸せな時間に、つい箍が緩んでしまった。 「んーと……」 武は粉砂糖のついた手を軽く払うと、困ったようにに向き直る。 「武、悪い。そんな深く考えないでくれて構わな――」 「オレは、『一緒に居たい』じゃなくて……来年も、再来年も一緒に居るつもりだけど」 そう言うと、武は照れたように笑い、無造作にポケットに手を突っ込んだ。 「え……」 面食らったようなの目の前に、おもむろに武は漆黒のベルベットのようにつややかに輝いている高級そうなケースを一つ差し出す。 「これは、オレからのクリスマスプレゼント」 そう言って、武はケースをゆっくりと開ける。 中から現れたのは、眩いばかりのきらめきを放つプラチナのリング。 「これ……」 「あー……これ、一応オレからのプロポーズな」 「………」 の頬を、一筋の涙が零れる。 その涙は、リングよりきらめいて流れ落ちた。 涙の通った頬が熱い。 駄目だと諦めながらも、人並みの幸せを望んでいた自分。 そうして訪れたのは、人並みどころか世界中で誰より一番の幸せ。 「返事は?」 「――お互い……くそじじいになるまで……一緒に…いようぜ」 「ああ……そうだな。勿論、ずっと一緒だ」 二人を祝うかのようにふわりと舞う、粉雪。 年に一度の聖なる夜。 この時を、二人は一生忘れない。 |
次回予告 U.ジンジャークッキー:骸 |
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