僕の好きな君の笑顔

日を追うごとに深まってくる夜気が、俺の身体を芯から冷やしてゆく。
プレイをしている時には感じないそれは、一人になった今になって急激に俺の身体を襲い始めていた。
暑かった夏が過ぎ去り、季節は今や秋から冬へと変わりつつある。
吹き付ける冷たい風が、それを確実の物語っていた。
「寒いな」
俺はブルッと体が震えるのを感じると、震える指でジャージの襟を立てた。
それにしても、今日の風は特別に寒いのかもしれない。
はあ、っと俺は自分の指に息を吹きかけると、手を乱暴にジャージのポケットに突っ込んで夜空を見上げた。
都会の夜空には僅かな星しか輝いてはいないが、それでもそれらの幾つかは誇らしげに美しく瞬いている。
今ごろは、君もこの夜空を見上げているのだろうか?
そんなことを考えて、俺は空を見上げた目を細める。
今日は君の笑顔が見られなかった。
たったそれだけのことで、俺の心はこの冷たい隙間風の進入を許してしまう。
自分でも笑ってしまうほどに情けない自分の心だ。
マインドコントロールなんて習得できる技術の内の一つだと、俺はいつか一馬を諭した事がある。
プロの世界に入る事を考えれば、そんなことは常識だと。
俺自身そう考えていたし、今でもそれは変わらない。
それが、なんてザマだろうね。
いや、それよりもこんなに簡単に俺の心を揺らす事の出来る君のことを評価したらいいのか?
どちらにしろ、今の俺は尋常じゃない。
「――素直に謝る事が出来ないのが、俺の悪い癖だね」
普段は殆ど見ることのない、君が本気で怒りを露わにした顔。
思い出すたびに苦い物がこみ上げてくる。
こんな思いをするくらいなら、いっそのこと謝ってしまえば楽だったかもしれない。
でも、なぜか出来なかった。
「はぁ」
ひとつ溜息をつく。
こんな情けない姿は一馬や結人には見せられない。
「ごめん」
彼がいない今となっては、その言葉もすんなりと口に出来るのに。
ああ、帰りたくないな。
一人の部屋にいたらきっと悪い事ばかり考えてしまうだろう。

*****

「――遅いよ、英士」
「……?」
「おばさんに聞いたら、まだ帰ってないって言うから……僕より先に出たはずなのに、何でこんなに遅くなったんだよ」
そうぶっきらぼうに言い放つ……先ほどから俺の思考を支配している人物の姿を、どこか他人めいた視線で眺めやる。
「聞いてるの?英士」
「あ?ああ……聞いてるよ」
なんで……どうしてがここに?
そんな基本的な疑問を頭から導き出すのに、どれだけの時間を要したのか自分でもわからない。
とにかく俺は、ちょっとでも気を抜いたら止まってしまいそうになる足を叱咤激励し、の元……つまり我が家の門の前へと歩を進めた。
は門に背中を預け、両手をポケットに突っ込んだ姿勢のまま俺の足元に視線を投げかけていた。
寒さの為か、彼の頬はほんのりと赤く染まっている。
「寒かったでしょ。何で家の中で待ってなかったの?」
心の中とは裏腹に、至極まともなことを返す口。
「――心配してたんだからな」
「答えになってないでしょ」
「英士の家でのうのうと、俺だけあったかくして待ってられないよ」
「こんな風に待っていられる方が、俺は心配なんだけど」
「だったら早く帰ってこいよ」
がいるなんて思ってもいなかったから」
「だって、僕の所為だし」
「その所為で俺が自殺でもすると?」
「だから……謝りたかっただけだよ。その……ごめん」
「……」
「……それだけだよ」
「なんで君が謝るの?どう考えても謝るのは俺の方でしょ」

今日の練習前、俺は不覚にも怪我をしてしまっていた。
ロッサのグラウンドのある駅で、酔っ払いに絡まれてホームから突き落とされそうになっている女性を助けようとしてその女性の下敷きになり、足を捻ってしまったのだ。
怪我自体は大したことがなかったので、俺はそのことを告げずに練習に参加した。
しかし、やはり親友たち3人は俺の動きにいつもの切れがない事を見抜いたようで、練習開始後1時間もしないうちに怪我の事がばれてしまった。
『なんでそんなに無理したの?!』
『大したことじゃないよ、これくらい』
『こんなに腫れてるのに、大した事ないわけないじゃないか!』
『心配のし過ぎだよ、は』
『英士こそ自己管理がなってないんじゃないの?!』
『お、おい……』
『一馬は黙ってて!英士はわかってないよ』
『……』
『こんな怪我して大丈夫だなんて、漫画じゃないんだから!こんなことじゃスポーツ選手失格だよ!』
『……に言われる筋合いは無いと思うけど?』
『おい、英士も……』
『結人は黙ってて。俺の身体は俺の物なんだから、に指図される覚えはないよ。だいたい、君だって夏に怪我してたじゃない。そんな君に言われたくないね』
『――!!解ったよ、勝手にしろ!』

そう、は俺の事を心配して言っただけなのに。
それを恥ずかしさとばつの悪さで突っぱねたのは俺。
「俺が謝る事があっても、が謝る事は……」
「でも、僕は英士を傷つけた。まず最初に怪我のことを心配するべきだったし、もっと言葉を選ぶべきだった。だから、ごめん」
そう言って、は足元を彷徨わせていた視線を俺の瞳に向けた。
真直ぐで、真剣な視線。
一度として敵わない、その視線。
俺はそっとに近づくと、彼のその細い肩に額を預けた。
こんな情けない顔、に見せられないからね。
「俺はね、……君にだから素直に謝れなかったんだよ。にカッコ悪いところは見せたくないし、情けないところを見せるのも嫌だから。だから、ばつが悪くてあんな事を言った。俺の方こそを傷つけたと思ってるよ、ごめん」
の手が俺の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「気にしてないよ。おあいこだしね」
「……が相手なら、負けてもいいけどね」
俺はの肩から少しだけ頭を浮かせると、両手をの背中に回した。
「……まったく、どのくらいここにいたの。身体が冷え切ってる」
「憶えてないよ。英士の事しか考えてなかったから」
また、そういって君は俺を喜ばせるんだね。
本当に、この俺が負けてもいいと思える相手は君しかいないよ。
「あんまり、俺を心配させないで」
「その言葉は、そっくりそのまま英士に返すよ」
「確かに、今日は反論できないね」
ほんの少し、背中に回した手に力をこめる。
「――上がって紅茶でも飲んでいってよ。それくらいさせてくれるでしょ?」
「そうだね、英士の入れた紅茶はおいしいから」
今は紅茶の為でもいいよ。
だから俺の大好きな君の笑顔を見せて。
俺の心の宝物にしていくから。


僕の好きな君の笑顔は僕の心の宝物。

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