THE BLUE IN THE BLACK |
優しく降る雨音が、しっとりと裂け谷を濡らしてゆく。 雨粒はその美しいエルロンドの館の柱や軒に当たると跳ね返り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。 きらきらと飛び散る光の粒を、館から漏れる白い光がやわらかく照らし、まるでそれは彼の館を照らす装飾品の一部であるかのように、その風景に彩りを与えている。 はその美しいテラスに面した廊下にたたずむと、微かに靄の掛かったような幻想的な風景に視線を留めた。 「この美しい景色も、今の私には何の慰めにもならないな」 彼はそう一人ごちると、その形のよい眉を僅かに顰める。 風はふわりと、軽やかに彼の艶やかな黄金色に輝く髪を揺らした。 たっぷりと水気を含んである筈の雨風が彼を撫で上げても、決して彼の身体を湿らせる事は無い。 裂け谷の雨はまるで森に降る真珠 さながら星の様 月の光の様 光の粒がきらきらと瞬いて地に落ちると それは美しく輝く大樹を育てる かくも美しき流れになる 総てを育てる糧となる われらを癒す宝となる はその美しい声音で一遍の詩を綴るとその唇を噤み、その良く見える目でどこまでも続く遠き道の遥か彼方を見やった。 「相も変わらず美しい歌声だ」 不意に彼の後方から拍手と共に、低い、しかし良く響く美しい声で賛辞が述べられた。 「ここ、裂け谷の中でも……いや、総てのエルフの中でもお前ほど美しい声で詩を紡ぐ者はいまい」 「誉め過ぎですよ。私の歌など大したことは無い」 「謙遜をするな。私はお前の紡ぐ歌が好きだが」 彼の言葉に、は視線を上げずに頭を振った。 「アルウェン姫の方が、何倍もお美しい声をお持ちです」 「あれとお前の歌は質が違うのだ。あれの声は確かに美しいが、あの歌はただ一人のために歌われる。ともあれ、私はお前の歌が好きだというのだ。お前はエルフのくせに歌を歌うのがあまり好きではないようだからな。――いや、歌を聞かせるのがと言った方がいいだろうか?」 彼――エルロンドはそう言うと、の方へと歩を進め、その隣に佇んだ。 「私は、私の声が他の者に聞かせるほど良い物では無いと思っているのです。決して嫌いだというわけではありませんよ」 「ならば、時には私のためにお前のその声を聞かせてくれぬか?会議や論議の時以外にな」 「あなたが、そうお望みなら」 はその美しい海の色をした瞳を優しく微笑ませると、口元を綻ばせた。 「久々に笑ったな」 「エルロンド様……」 「お前はあの白の会議の時から……いや、もうずっと前から笑わなくなっていた。お前は賢く、鋭く、強い。それゆえに皆が不安を感じる前から、この冥王の落とす脅威の片鱗を感じていたのであろうな。」 エルロンドはふとその厳しい光をたたえている瞳を和らげると、その視線を足元に落とした。 「私は……この裂け谷の王として、この谷のエルフを率いて行く者として、お前達を不安にしている事の原因を直接取り除く事ができない事を、とても口惜しく思っているのだ。総てをミスランディアやドゥネダイン、フロド等に任せ、我々は見守る事しかできない。私はお前を不安に――」 「エルロンド様!違います、私は!!」 はエルロンドの言葉をその鈴の鳴る様な美しい声を悲痛な叫びに変えて遮ると、その星の光をたたえたような灰色の瞳を見据えた。 「私は、そのような事で不安に思っていたわけではありません。いえ、今をもってしても不安ではないのです」 「では」 エルロンドはたずねるようにに問う。 「何がお前の心をそのように迷わせているのだ?」 「私には、力が無い。この中つ国を、この谷を、この谷の王を守らしめる力がないのです。私には人間よりも力があり、智慧もあり、精神力もある。しかし、私には何もできないのです。我が王の悲しみを取り除く事すらもできないのです。私にはそれが口惜しい」 は雨露にぬれて煌くテラスの縁を、その白い指先が更に白くなるほどに握り締めた。 「お前は、私がお前を旅の仲間に入れなかったことを責めているのかね?」 エルロンドは静かにそう言った。 彼のその声に厳しさは無く、むしろ親愛が篭っていた。 「そうかもしれません、いや、そうでないのかもしれない。きっとあなたがもし私を旅の仲間に指名したとしても、やはり私はここを離れる事はしなかったでしょう。私の仕事は、ここ裂け谷にあるのですから」 彼は口を休めて、視線を落とした。 「私の仕事は、あなたを守る事なのですから」 静寂が訪れる。 ただ、雨の音だけが優しく、彼らを暖かく迎え入れる人々の拍手のように響いていた。 平常を装っても、ひしひしと日々募ってくる冥王の不安の影。 知らなければ、気が付かないでいれば、苦労をすることも悲しむ事も無かった。 しかし、現実には知ってしまった。 後悔しても遅いのだ。 残っている道は、それに向かって前を向いて立ち向かう事だけだ。 しかし、自分にいったい何ができるのか。 小さな存在の自分が口惜しい。 「さても不吉な風よ。彼らに不幸がなにも起こらないと良いが」 は永遠とも思えた静寂を破り、ポツリと呟く。 「彼らはうまくやるだろう。彼らにはミスランディアも、アラゴルンもついている」 「そう、ですね。我らにできる事は、彼らを信じることだけなのだから」 「いや、我らにできる事は他にもある」 エルロンドは瞳の力を取り戻すと、しっかりとを見つめた。 「それを、今から考えるのだ。彼らにいつか我らの力が必要になる時があるかもしれない。その時のために、われらは力の限りを尽くさねばなるまいよ。お前も、私に力を貸してくれるな?」 威厳溢れる王の言葉に、はしっかりと頷く。 「勿論です、エルロンド様」 裂け谷の雨はまるで森に降る真珠 さながら星の様 月の光の様 光の粒がきらきらと瞬いて地に落ちると それは美しく輝く大樹を育てる かくも美しき流れになる 総てを育てる糧となる われらを癒す宝となる エアレンディルの光のような 美しく幸せに満ちた、希望の光 それは、我ら裂け谷の宝物 |
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