La Traviata 〜椿姫〜

1話 ああ、そは彼の人か


温かな日差しの中、柚木と香穂子が楽しそうな笑顔で微笑みあっている。

互いの楽譜を覗き込み、しばらく考察を加え、再び各々の楽器を手に取り柔らかな音色を奏で始めた。

ふわり、と風の香りさえも変わってしまったかのように豊かで艶やかな芳香を漂わせる音色。

火原和樹はまぶしそうに二人の様子を眺めると、一つため息をついた。

最近の二人の演奏には艶が出てきて、いっそう深みが増した。

そう言った楽しそうな王崎の口調を思い出すと、チクリと和樹の胸が痛む。

和樹も音楽の道を志す人間であるから、その位の変化は感じ取っていた。

だが、なんとなくそれに居心地の悪さを感じてしまう。

と、不意に柚木のフルートの音色が止まった。

つられて香穂子のヴァイオリンも止まり、不思議そうに柚木を見つめる。

柚木の視線の先を追いかけると、そこにはひらりと風に乗って、一枚の葉が香穂子の髪に舞い降りていた。

柚木が苦笑して香穂子の髪をさらりと払い、葉を取り除く。

真剣に演奏をしていて気が付かなかったからなのか、柚木の行動に照れたのか、香穂子は可愛らしく頬を染めると柚木に小さく何事かをつぶやいた。

柚木は一つ笑顔を見せると、再びフルートを構えた。

頬を染めたまま香穂子もそれに習い、再び甘やかな音色が木々に響き渡る。



トランペットのケースを脇に置いたまま、和樹は二人を追う眼を少し細めた。

恋心、と言ってしまうには淡すぎる思いだった。

言葉には出来ないほのかな想い。

最初は彼女の音楽に対する直向さに感銘を受け、純粋に応援したいと思った。

応援しているうちに、自分の音楽に対する気持ちを動かされた。

ただ、楽しければいいと考えていた自分に、将来を考えるきっかけをくれた。

彼女から与えてもらったこの沢山の思いの分だけ、彼女の支えになりたいと思った。

しかし……彼女が選んだのは自分ではなくて柚木だった。

彼女は柚木の総てを受け入れ、許し、彼を解放した。

しなやかな強さを持つ彼女だからこそ、表向きだけでない柚木の総てを享受し、包み込む事が出来たのだ。

柚木の危うさをどこか敏感に感じ取っていた和樹としては、心からそれを喜ばしいと思った。

と同時に、わずかな胸の痛みを味わう結果となった。

「物憂い表情だな、青年」

不意に視界が翳り、美しいテナーが和樹の頭上に降り注いだ。

「あ、かぁ」

「お気楽和樹先輩が色っぽい表情できるようになったじゃないか、ん?」

酷く耳障りのいい声を持つと呼ばれた青年は和樹の隣に腰を降ろすと、スポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出した。

「なんだよ、色っぽいって」

「お気楽には突っ込まないのか」

は茶色の瞳を悪戯っぽく細めカラカラと笑うと、ペットボトルのキャップを開けた。

「コレ、ありがと」

なんとなく馬鹿にされた感はあるものの、和樹は黙ってドリンクの礼を言う。

「あ、練習しない子にはあげません」

和樹がキャップに手をかけた瞬間、突如の長い指から繰り出されたでこピンに襲われた。

「え〜!ぬるくなっちゃうじゃん!」

「だまらっしゃい。働かざるもの食うべからず、練習せぬもの飲むべからず」

和樹は口を尖らせて涙目で講義するが、にピシャリと一蹴される。

「ちぇ」

和樹は大人しくケースに手をかけると、艶やかに光るトランペットを出し手入れを始める。

「オレさ、和樹先輩の音楽好きなんだよ」

「え?」

「や、なんでもね」

思わず聞き返した和樹をさらりと受け流すと、は再びカラカラと笑った。

の笑い声は胸に心地よく響く。

和樹は言い返す気もなくなり、静かにトランペットを構えた。

和樹が息を吹き込むと、軽やかで華やかな音色が踊る。

音符一つ一つがくるくると踊るように、森の木々の間を鮮やかに跳ねた。


「ねえ、

トランペットを仕舞い込みながら、和樹はポツリとつぶやいた。

「ん?」

「おれ、日野ちゃんのこと好きだった……のかなぁ」

「……」

「なんか、彼女の事応援したいっていうか、支えになりたかったんだよね」

「うん」

「でもさ、もうおれにその資格がないって言うか……柚木がいるんだもん、おれいらないんだなーって」

「……」

「彼女はおれの支えになってくれたけど、おれは彼女の支えにはなれないんだなってさ」

――ちくりと痛む胸、これは誰の想いか。

「きっと……」

「ん?」

「先輩の『応援してる』って思いは、きっと日野に伝わってるよ」

まるで独り言ちるように、が呟く。

「……そっか。そうだといいな!」

「和樹先輩はイイヤツだからさ、先輩の純粋な思いはちゃんと、伝わる」

の声が、闇の迫った紅い空に凛と響く。

めったに見る事のないの真剣な表情をみて、和樹はなんとなく少し気恥ずかしくなって頭をかいた。

「へへっ……ありがと、

ふ、とが破顔する。

「ん、なにかあったらいつでもお兄ちゃんに相談なさい」

「何言ってんだよ、のが年下じゃん!」

「いいの、精神年齢はオレのが上だから」

二人の軽やかな笑い声が夕闇に溶けていった。


夜の帳の中、はベッドで寝返りを打った。

――おれ、日野ちゃんの事……

和樹の言葉が、打ち消しても打ち消しても何度も鮮明に脳裏によみがえる。

「……解っていた事じゃないか、何をそんなに動揺する」

自嘲気味にそうつぶやくとその形の良い唇をきつく歪めた。

頭が痛くなるほどの静寂がを襲う。

まるで、この世にたった独り置き去りにされたような得体の知れない不安。

は頭まで布団を被ると背を丸め両耳を押さえた。

やがて、とろとろと冷たい眠気が襲うまで、は冷たい手で自身を抱き続けた。


NEXT 

ウインドウを閉じてお戻りください。