BLACK 〜Prologue〜

その日は、雨がシトシトと降っていた。
窓枠に張り巡らされた鉄格子に雨粒が当り、カンカンと不規則な音をたてる。
カン、カン、カン……。
しっとりと冷たく湿った風が、の頬をねっとりと撫で上げた。
は無言で湿気の為に頬に張り付く黒髪を無造作に払いのけると、その口元をしっかりと引き結んだ。
カツン、カツン、カツン……。
石畳には雨音と対照的に規則的に響く、の乾いた靴音が木霊する。
鉄格子越しに、雲間に出た月が僅かな光を地上に漏らすのを見ると、は肌が粟立つのを感じた。
この寒々とした石畳の廊下に佇む、多くの影……それらの姿が月光に照らされて、その存在をまざまざと見せ付けられたような感覚を感じる。
黒い、うつろな瞳。
唯人の幸せだけを餌に生き続ける、闇の人形……ディメンダー。
は一瞬眼前に現れたそれらの影を憎悪の瞳で一睨みすると、唇を噛んでその横を通り過ぎた。
ディメンダーはに見向きもしない。
それはがこの現世の地獄、アズカバンの囚人でなかった事と、彼の気持ちに「幸せ」な感情が微塵も感じなかったからだ。
人の幸せな感情を喰らう彼らにとって、ほど魅力的でない物質は無かった。
は再び月にかかった雲がディメンダーの姿を隠すと、目的の場所に向かう歩調を速めた。
歩を進める横の鉄格子の奥から、言葉ではない言葉のコーラスが響く。
ディメンダー達により正気を奪われた罪人達の慣れの果てだ。
の頭に、不吉な想像がよぎる。
――ばかな。
自分の想像に身震いをして、その考えを振り払うように軽く頭を振った。
は握った拳を更に強く握り締めると、小走りに回廊を駆け抜ける。
長い長いその言葉にならない声のコーラスの響く回廊を更に数回曲がり、いいかげんに不快感が全身を包む寸前、漸くその突き当たりの独房にの探す人物は、いた。
の心臓がドクン、と奇妙に揺れる。
その囚人は格子に背を向け、冷たい石畳の壁に向かい一人静かに座っていた。
その様子は他の囚人と違い、どこか達観し、落ち着いているように見える。
彼は言葉にならない言葉を吐いている事もないし、うろうろと房の中を歩き回っている事もない。
ただ、静かに何か自分の考えに没頭しているかのようだ。
は思わず歩調を崩した。
規則的に響いていた石畳を打つ音が不意に途切れ、囚人の肩が僅かに動く。
「……誰だ」
静かに、囚人の声が房と回廊に響いた。
不思議と雨音と他の囚人の紡ぐ不協和音はの耳には届かない。
ただ、彼の耳にはその囚人の発した、低く通るテノールだけが届いた。
「……シリ、ウス……?」
はその囚人の問いには答えず、掠れたようにやっとそれだけを喉の奥から搾り出した。
「……なのか?!」
「そうだよ……僕だよ……シリウス……」
は震える声でそう言うと、同じようにガクガクと震える足を叱咤し、その囚人……シリウスの独房へと近づいた。
「なぜ……何故ここへ来た?!!」
シリウスは信じられない物を見たかのようにを見据えると、鉄格子を握り締めるの手に自分の手を被せるように握った。
「なぜ、だって?これでも……遅いくらいだよ!半年も経ってるんだ!本当はもっと早く来るつもりだった……。シリウスがアズカバンに入れられた直後に!でも面会は許されなくて……。今回だってやっと、ダンブルドア校長の力でファッジの首を縦に振らせて何とかここまで来る事が出来たんだから!」
の掠れて小さかった声は、やがて彼の感情の高ぶりによって胸に詰まっているものを吐き出すように一気に言葉を綴った。
「裁判もなし、説明もなし、取調べだって……!皆が君を犯人だと決め付けて、疑わない!クラウチは君の本来あるべき総ての権利を取り上げ、アズカバンに入れた!誰の証言も聞かず、何も見ようとはぜず、総て……!」
……」
「だって、僕は知ってる!君が彼らのシークレット・キーパーじゃないことを!君が友人を裏切るわけが無い事を!本当のキーパーは……、ジェームズとリリーを裏切ったのは……!」
!」
シリウスの声が響くと、ビクリとの肩が震えた。
……その話はしては駄目だ。少なくとも、今はまだ。君がいくらその話をしようとも……哀しい事だが誰も信じはしないだろう。今やこのシリウス・ブラックの名は第1級殺人犯として定着しているんだ。君がそう主張し続ければ、いずれ君にも共犯の嫌疑がかかる。それは……俺の望む所ではない」
「でも……!」
「それに、だ。ヴォルデモートも恐らくまだ生き延びているだろうと思う。奴がそう簡単に死ぬはずがない。君がもし総てを知っている事を知ったら……彼の崇拝者であるデス・イーターが間違いなく君を探して、そして……」
シリウスはそこで言葉を切ると、口惜しげに唇を噛んだ。
「今の俺はそれを止める事ができない。君を……守る事が出来ないんだ」
そう言うと、シリウスはの手を握る指先に力を込める。
「だから、その事を口外してはいけない。あの、裏切り者が見つかるまでは」
「じゃあ……じゃあシリウスはずっとこのままじゃないか!」
がほとんど涙声になりながらそう叫ぶ。
その声は固い石畳に反響し、何度も木霊しながら回廊に響き渡った。
「期が熟せば、俺はどうあってもここから逃れる。自分の不始末を自分でつけるために。あの裏切り者を、この手で捕まえる為に」
「でも……!」
「それまでは……このままだ。だから……君はもうここに来ては駄目だ」
「どうして!」
「君も知っているだろう。ディメンダーは人の幸せな気持ちを喰って生きる。今までは、ジェームズとリリーが亡くなった悲しみと、アイツの裏切りに対する憎しみが心を凌駕していて、ディメンダーに与える心の隙がなかった。勿論君の事も考えないようにした。だから俺はここで正気を失わずにすんだんだ。けど……今君がここに現れて……俺は確信した。君がここに来ると……俺は幸せな気持ちになってしまう。忘れようとした幸せな気持ちが蘇ってしまうんだ、だから……」
シリウスはもどかしい様な、苦しいような、沈痛な面持ちで視線を足元に這わせた。
重苦しい沈黙が二人を包む。
シトシトと降り注ぐ雨音だけが、二人の沈黙を哀しげに埋めた。
「……俺は、君を愛している、
ぽつり、とシリウスは呟くように床に言葉を落とした。
「……シリ、ウス……!」
はこらえきれずに、格子越しにシリウスの背に手を回す。
「……僕もシリウスが好き……!」
シリウスは僅かに躊躇ったようにその涼しげな瞳を見開くと、堪らずの背を力強く抱き寄せた。
二人を阻むアンチ・マジックの呪をかけられた鉄格子が、妙に冷たくその存在を主張している。
その格子越しの僅かな熱にも忘れかけていた愛情を感じ、シリウスは眩暈がするような気がした。
その熱の波に押されるように、シリウスはの唇に自分のそれを押し付ける。
何度か唇を重ね、貪るように舌をの口内へ進入させると、蹂躙するように歯列に舌を這わせ、探るように舌を絡ませた。
「……っはぁ」
の僅かに漏れる吐息を感じて、シリウスは再び強く唇を重ねた後、名残惜しげに唇を離した。
シリウスはゆっくりとの頬に伝った涙の跡に唇を落とし、その艶やかな黒髪を梳く。
「……さぁ、帰るんだ、ホグワーツに。あそこなら、君に何があってもダンブルドアが護ってくれる。いいかい、あの事は……誰にも言っては駄目だ。そして……もう2度とここに来てはいけない」
シリウスは諭すようにそう言うと、の背から腕を開放し自ら鉄格子から離れた。
「……シリウスっ!」
格子を握り締め再び涙で掠れた様な声をあげると、シリウスは静かに首を横に振った。
「いくんだ、
「……っ」
はのろのろと格子から手をはずすと、乱暴に頬を流れる涙を擦る。
「死なないで、絶対」
「死なない、絶対に」
はそういったシリウスに無理矢理笑顔を作り、未練に誘惑されないように踵を返すと、房から見えなくなる位置まで駆け出した。
行きには感じなかったディメンダーの存在感がに重く圧し掛かる。
クンッとまるで夢の中の空間を走るように足が重くなった。
水の中を必死で走っているようなもどかしさ。
今にも力尽きて膝から崩れ落ちてしまいそうな感覚。
今さっき感じた幸福を思い出と共に総て吸い取られてしまう……。
これが、ディメンダーの力。
シリウスはこれからも……ずっとこれにたった独りで耐え続けなくてはならないのだ。
「……嫌だ!」
は悪寒を振り払うかのように必死で叫ぶ。
「やめて……!」
叫び続けながら、長い長い回廊を、独り走り続けた。
雨の音も、響き渡る囚人たちの意味不明な言葉も、もはや何も耳には届かない。
は無我夢中でエントランスホールまでの道を走った。
シリウス、シリウス、シリウス!
転がるようにエントランスホールに飛び込むと、の帰りを待っていたダンブルドアと魔法省大臣コーネリウス・ファッジが驚いたように視線をに向ける。
が止め処なく流れる涙を乱暴に何度も擦りながら二人に近づくと、ファッジは心底同情を浮かべたような瞳でに視線を向ける。
恐らく尊敬していた先輩の『慣れの果て』の姿を見て、絶望に打ちひしがれているとでも考えたのであろう。
ファッジは励ますようにの肩を叩いた。
ダンブルドアはその瞳に不思議な光を湛えて、慈しむような瞳でただを見ている。
僅かな沈黙の後、二人の視線を受けては徐に口を開いた。
「僕……オーラーになります」
震えているが、しっかりとした意志の強い言葉。
「ミスター・スネイプ……」
の言葉に、ファッジはいたく感銘を受けたように掴んでいる細い肩を引き寄せた。
「そうか……悲しいだろうね、その……尊敬していた先輩があのような事になって……。君は彼と特に仲が良かったようだし……。しかも君のお兄さんは……うむ、だが、悲しみを乗り越えてこそ本当の強さは得られると言う物だ。君の気持ちは痛いほど解るよ……。幸い君は成績も良いようだし……君がオーラーになりたいと言うのであれば、卒業後に我が魔法省は君の魔法法執行部への入所を心から歓迎しよう。勿論、アルバス……校長がそれを承諾すれば、の話だがね」
そういってファッジがダンブルドアに視線を寄越すと、彼はなんとも言えない不思議な表情で彼らの視線を受け止めた。
慈しみと、不安と、僅かながらの心配を含んだその表情に、は僅かながら動揺を覚えた。
は、ダンブルドアがこの提案に快諾をしない事など思いもしなかったし、しない理由も思いつかない。
「……校長?」
は不安げに濡れた瞳をダンブルドアに向けると、彼は一つ小さく嘆息し、何かを決意したようにの瞳を見つめた。
「……そう言うじゃろうと思ったわい。しかしな、オーラーの道は……君には辛い事が多く待ち受けているかも知れんぞ?そして……君を愛する友人や大切な人は……それを望むかの?それでも……よいのかの?」
の背がビクリと震えた。
シリウス……彼は恐らくこのことを知ったら大いに反対するに決まっている。
彼の声も、仕草も、それらの総てが目に見えるようだ。
は唇を噛んだ。
「それでも……やっぱり僕は……これ以上誰かが傷つくのは見たくない。誰かが辛い思いをするのなら……それが他人であるより自分である方がマシです!」
ダンブルドアは寂しそうに少し笑うと、の頭を優しく撫でた。
「決意は固いようじゃの。ならば誰も君を止められまい」


シトシトと降る雨が、窓を叩き続ける。
それから12年の月日が経ち……シリウス・ブラックは脱獄したというニュースが、魔法界のみならず全世界に報じられる事となった……。
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