BLACK 〜BLIND〜

凄い――。
ロンにはただその言葉でしか、たった今起こった現象を表現できなかった。

ただ熱狂的にグリフィンドールの応援をしていたロンが異変に気付いたのは、ハリーの様子が豹変してからだった。
きらりと閃光が走り耳を劈くような雷鳴が轟いた後、ハリーの箒は制御不能のように数メートル落下した。
ロンは反射的に両手で目を覆う。
ロンが再び目を開いた時、一瞬体制を立て直したかのように見えたハリーだが、再びそれはグラリとバランスを失う。
「ハリー!!」
瞬間的にハーマイオニーの悲鳴が鋭く響いた。
ハリーは今や意識を朦朧とさせながら、制御を失った箒と共に地面へと真逆様に落ちてゆく。
ハーマイオニーは必死でロンをローブを掴むと、今や急降下しつつあるハリーの身体の真下を指差した。
「ロン……あれ……!!」
瞬間、ロンは自分の身体が強張るのを感じる。
血が凍るような、身体中が痺れるような、不快な感覚が身体を支配する。
そこに居た者は……何百のディメンダー。
暗い瞳を揺らめかせながら、生気を求めて彷徨い出た闇の人形。
ホグワーツ特急でみたそれとはわけが違う威圧感。
ロンは、引きつったように手すりを握り締めた。
「誰か……誰かハリーを助けて……!」
悲鳴のような叫び声がロンの喉から迸った。
「ハリー!!」
ハーマイオニーの悲鳴が短く響く。
「ウィンガーディアム レヴィオーサー!!」
轟くようなダンブルドアの怒声が聞こえ、ハリーの身体は地面すれすれでスペードを緩めた。
「……!」
生徒たちの悲鳴がグラウンドに木霊した。
ハリーの身体は、まるで宙を舞い降りる羽のようにふんわりと地面に横たわる。
ザワリ、とディメンダーは声にならない声をあげて、ハリーに近づいた。
ゆらゆらと揺れるように、数え切れないほどのディメンダーが続々とハリーの下に集まる。
「ああ、ハリー!!」
「エクスペクト パトローナム!」
ハーマイオニーの悲鳴に重なるようにダンブルドアの口から怒気を含んだ低音が響き、その杖から幾筋もの銀色の光が迸った。
再び、ザワリとディメンダーはうめき声をあげると、そのうつろな瞳を恨めしそうにダンブルドアを見つめた。
ううう、と奇妙な言葉を発し、邪魔をするなとばかりにディメンダーは再びその不安定な足取りをグラウンドへ向ける。
「……愚か者が!」
ダンブルドアは怒りため紅潮した頬を震わせながら、再びディメンダーに対する制止のためにその口を開こうとした。
瞬間、ディメンダー達は一斉にその不規則な動きを凍りついたように止める。
「……離れろ」
一斉に、ディメンダーはその声をした方を振り返る。
ロンにはグラウンドは水を打ったように静まったように感じた。
ただ、雨が地面を打つ音と雷鳴だけが静寂を埋める。
まるで氷の矢で胸を射抜かれたような恐怖が、ロンの胸を締め上げた。
ザワリ、とディメンダーは声にならない声をあげる。
「……離れろといっているのが聞こえないのか?」
再び氷のような声音がグラウンドを支配すると、瞬間的に輝いた稲光によって初めてロンはその声の主の姿を認識した。
雨に濡れた白いマントが稲光を反射してきらりと瞬きながら翻る。
身体にぴったりと張り付いた真っ白なジャケットが妙に扇情的で、ロンは思わず生唾を飲み込んだ。
「……だ……」
見慣れたはずのの姿なのに、激しい拍動が止まらない。
ロンはぐっしょりと雨と汗で張り付いた前髪を乱暴に撫で付けた。
「私の命令が聞けないのかと聞いている」
再び低く発せられた声と同時に稲光が走り、その姿がくっきりと薄暗い闇に浮かび上がる。
その、白い頬には真っ赤な……鮮血。
肌の色も、マントも、ジャケットも……雪のように白い彼の姿に、まるでそこだけ花が咲いたように映える、紅。
ロンはぼんやりと脳内が痺れたように『それでいつもと違うように感じたのか……』などと、ただそれをみつめた。
雨に濡れた鮮血が頬を滑り落ち、彼のジャケットに赤い染みを齎す。
ディメンダーは僅かに怯えの色を見せた。
一歩、が彼らに近づく。
ギラリ、との右手に握られた細身の白銀色の剣が稲光を反射させた。
「……インペリオ!」
はその白銀色の剣を閃かせると、事も無げに服従の呪文を唱える。
ディメンダーは恐怖に立ち竦んだ。
「……すぐに立ち去れ……そして、二度と領内に入り込むな!」
は剣先をディメンダーに突きつけると、凍り付いてしまいそうなほど冷たい表情を浮かべた。
「今後私の命令が聞けないのであれば、私は容赦なくお前たちを消す。私には、お前たちを消す事くらい、造作ない事なのだから」
ディメンダーの間に、動揺と緊張が走る。
ホグワーツ特急での一連の事件を、彼らが知らないはずが無かった。
ただの魔法使い程度には、自分達は従いこそすれ服従などしない。
彼らの魔法など自分たちにとってたかが知れている。
彼らには自分たちを守護霊によって追い払う程度の事しかできないのだから。
だが、彼らが服従せざるを得ない人物もいる……ヴォルデモートと、彼らの天敵――オーラーだ。
彼らだけは、自分たちを永遠に消す方法を心得ている。
そして、今目の前にいる人物は……間違いなく後者だ。
彼からは発せられるオーラが、無言でそう告げている。
「さぁ、消えろ!」
ディメンダーには、彼の服従の呪文に抗う術は持ち合わせていない。
瞬く間に、ディメンダーは怯えたように音も無くグラウンドから引き上げた。
ダンブルドアは今だ険しい顔でそれを眺めている。
「……凄い……」
暫くの後、呆然としたようなハーマイオニーの呟きにロンはただ頷くと、その言葉を反芻した。
凄い――。
確かに、ロンにもその言葉でしかたった今起こった現象を表現できなかった。

「遅くなってすみません、ダンブルドア校長……私が居なかった為に、こんな……」
は、ハリーが担架で運び出されるのを眺めながら、そう漏らした。
その瞳は怒りと後悔と自己嫌悪で満ち溢れている。
ダンブルドアは顔から緊張を解くと、の顔を優しく見下ろした。
「いや……君のせいではないじゃろう」
相変わらず雨はを濡らし、その頬の鮮血の染みを広げている。
「いえ、やはり私のせいです。私が奴らから目を放しさえしなければ、奴らがここに現れる事は無かった……」
そう言うと、は悔しげに白銀に光る剣の柄を握り締めた。
「じゃが、君があの校内に入り込んだデス・イーターを追いかけておらなんだら、ハリーは気絶どころではすまなかったかもしれんじゃろう。のう?」
「………」
「……わしは君の行動を認可したんじゃ。君は、上司でも何でもないわしに、わざわざディメンダーから離れる許可を得に来てくれた。君はそう判断したんじゃろう?ディメンダーよりこのホグワーツに対して有害な事が起こっていると、そして自分がそちらに向かうべきだとな。そしてわしはそれを聞いてその事について任せろと請け負った。……だから、むしろ咎が有るとすればわしにじゃろう。まかせろといっておきながら生徒に怪我をさせるとは何事だ!とな」
「そんな!」
は激しく頭を振った。
ダンブルドアはその顔に微笑を浮かべると、優しくの肩を叩く。
「君はそのデス・イーターを払い、その上素早くこちらにかけつけてくれた。君が駆けつけてくれなんだら……ハリーはもっと酷い事になっていたかもしれない。わしだけでは、奴らを追い払う事が出来なかったかもしれん。だから……わしは礼を言わねばならんの、
「ダンブルドア校長……」
の視線にダンブルドアは再び微笑を浮かべると、促すようにその背中を押した。
「さぁ……いつまでもこんな所に居ては風邪を引く。部屋に戻って身体を乾かすとしよう。わしはその後でハリーの様子を見ねばならんのでな」
ダンブルドアの言葉に、は僅かに微笑を浮かべた。



月が出ていた。
それは僅かに残る薄雲に阻まれて僅かに見え隠れしたが、それでも自分の所在を薄く主張している。
昼間の豪雨は霧雨に変わった。
しっかりと水分を吸った衣服が重い。
はしっとりと湿る森の中を、ただ当ても無く歩いていた。
歩きながら、は空を見上げる。
今、の心は後悔と罪悪感が支配をしていた。
昼間の行動は、どれほど浅はかな行動だっただろう。
このホグワーツに現れたデス・イーターは……ハリーが目的ではなかったというのに。
いかにも、それがハリーを追っているかのようにダンブルドアに説明し、そのデス・イーターを追うためはディメンダーから放れた。
ハリーが大切でないと思っているわけでは、断じてない。
しかし、自分は持ち場を離れた。
勿論ダンブルドアの言う通り、あのディメンダーを放っておいたら確かにもっと酷い事態を引き起こしていたかもしれない事は確かだ。
そして、結果はハリーも生徒も無事……。
しかし、終わりよければ総てよしなどと、には思えなかった。
「俺は……何をやっているんだ!」
顔にかかる黒髪から、雫が頬に伝った。
風が雲を流し、月が姿を消す。
灰色の暗闇が、禁断の森を包んだ。
しっとりと湿気を含んだ土は、歩く彼の足音を消してくれる。
は、機械的に動かしていた足を止めた。
冷たい冷気が、の背を走る。
冷ややかな風がの頬を掠めると、ザワリと木々を揺らめかせた。
の視線の先で、バサリと吸数羽の鳥たちが逃げ出すような羽音が響く。
彼の身体は思わず緊張のために強張った。
「……!」
次の瞬間、の身体は何者かによって背から拘束されていた。
まるで抱きすくめる様にに回された腕は、僅かに震えている。
はその長い睫毛を2度ゆっくりと瞬かせ、そのまま瞳を伏せた。
「……抵抗しないのか?」
背後から、震えたような掠れた低い声が微かに響く。
は首を振って否定を表すと、自分を拘束している者の腕に自分の手を重ねた。
この体温を忘れるはずも無い――彼は……。
……わたしは……」
「駄目、言わないで……!今貴方が名前を言ったら……俺は貴方を……捕まえなくてはいけなくなる……」
は首を振ってそう言うと、きつくその手を握り締める。
「……解った」
背中から伝わる熱が、泣きそうなほど懐かしい。
は熱くなる心を押さえきれず、自分を抱き寄せる腕に頬を預けた。
思わず、の口が彼の名を呼びそうになる。
しかし、……それは叶わない願いだった。
「……本当に……オーラーになったんだな……君は」
そう言って、男はの腰の剣に視線を下ろした。
オーラー……特に高位のオーラーは杖ではなく、それと同じように芯に魔法媒介を仕込んだ剣を杖のように使う。
彼らの剣は、騎士が剣に主君への忠誠を誓うように、闇払いの仕事に忠誠を誓う物でもある。
それゆえに彼らの白銀に輝く剣はオーラーの証であり、誇りであり、呪であると言われていた。
「………」
は視線を落としたまま、ただ首を縦に振った。
沈黙が、場を支配する。
を抱く温かな腕の力だけが強まった。
木の葉擦れの音だけが静かに二人の耳に聞こえ続ける。
「……デス・イーターが狙っているのは……ハリーだけじゃない……アズカバンの脱獄囚――も追っている……」
ぽつり、と呟くようには言葉を零す。
「ああ……知っている。君が、今日それを払ってくれたことも」
男はそう言うと一層を抱く腕を強めた。
「強くなった……君は、とても」
は激しく頭を振った。
「強くなんか無い!俺は……危うくハリーの命を危険に……危険に晒す所だった!自分の衝動を押さえきれずに……俺は……」
!」
男はそう言っての肩をつかんで正面に向き直らせると、ただがむしゃらに抱き寄せた。
「自分を……責めるな」
「……っ俺は……ハリーより貴方を選んでしまった!貴方がハリーを誰よりも大切に思っていることを知っているのに……!」
はそう言って男の背のローブをしっかりと握ると、その眉を悲痛に歪めた。
「俺はダンブルドアも、ハリーも、貴方も……皆を裏切った……」
「裏切ってなどいない」
「俺は衝動で、人を殺した!いつもなら、生きたまま捕まえられるのに……。自分の都合で、人を殺した!殺さずに済む者を……俺は……っ」
掠れて消え入りそうな声で、はうめく。
「だが、君は守った。ハリーも……そして、このホグワーツを」
「俺の手は……血で汚れている!」
男は、吐き捨てるようにそう言ったの震える肩を、きつくきつく抱きしめた。
肩を抱く力の強さに、ビクリとの細い背が跳ねる。
の震えを感じ、この純粋な青年が愛おしい……男はただそう思った。
「それでも……やはり、わたしは君を愛している」
ただ静かに、それでもはっきりと男はそう告げた。
「君を……愛している」
そう言って、男は掠めるように僅かにその唇をの唇に重ねる。
触れ合っただけの、シンプルなキス。
はその長い睫毛に縁取られた海の色の瞳で、男の涼しげな灰色の瞳を下から覗きこむように見つめた。
薄闇の中、澄んだ灰色の瞳だけが優しく切ない光を灯す。
「……好き過ぎて苦しいよ」
二人の視線が甘く激しく絡み合う。
「死んでしまうんではないかと言うくらい苦しいんだ……」
再び二人の唇が触れ合う寸前、僅かな薄雲の切れ間から月が覗き、ふわりとささやかな光が二人を照らす。
残酷な光が闇の中の男の顔を照らしかけた。
「……!」
は瞬間的に眉根を寄せると、素早くその男を突き飛ばした。
「行って!」
は男を振り切るように背を向けると、悲痛な声をあげた。
「お願い、行って!俺はオーラーなんだ!俺は……貴方の顔を見たら……貴方が誰かわかったら……貴方を捕らえる役目がある人物なんだ!」
……!」
「俺は、貴方の顔を見る事ができない!だからお願い……行って!俺に貴方を捕らえさせないでくれ……!」
の叫びに男は苦しげに、だが唇を噛んで小さく頷いた。
「……解った。君も……元気で」
背後でガサリと草を踏みつける音が聞こえた。
ガサリ、ガサリ。
次第に、足音は遠ざかる。
は堪らず後ろを振り返った。
微かに闇に溶け込む寸前の、森の中を歩き去る小さな背中。
は唇を噛んで、月を見上げた。
「……シリウス……!」
の問いには答えず、ただ月は僅かな光をゆらゆらと森に投げかけていた。
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