Now I'm Here |
風がさわやかに頬を撫で上げる。 真っ青に晴れ渡った空には僅かばかりの雲が浮かぶばかりで、その空の明るさを邪魔する物は何も無い。 鳥達はその青空を独り占めにして、優雅に宙にその美しい翼を広げた。 「……ふぅ、暑いなぁ……」 木陰の下で、少年が額の汗を拭いながらそう独りごちる。 ふわりと風が少年の髪を巻き上げると、少年は形のよい眉を少しだけ引き上げ、ほっと吐息をついた。 まだ5月だというのに、温度計の針は20℃の後半を指している。 今年の夏は暑くなりそうだなぁ、と少年は柄にも無く苦笑をした。 少年は再び鮮やかなワインレッドとグリーンのレンガを組み上げた遊歩道を歩き出す。 ゆるやかな上り坂をいつものように少しゆっくりと。 カキーン…… しばらく歩くと、アマチュア野球独特の金属音が響いた。 カキーン…… 所々不規則に響くその音が聞こえると、自然と少年の顔が綻ぶ。 坂を登りきった所にある、野球場。 彼の足はそこに向かっていた。 * * * * * 〜♪ A baby I was when you took my hand And the light of the night burned bright And the people all stared didn't understand But you knew my name on sight Whatever came of you and me? 〜♪ ポータブルMDプレイヤーのヘッドフォンから軽快なギター音があふれ出る。 少年は緩やかな上り坂を軽やかに自転車で駆け抜けた。 風が頬を走り抜けると、少年は気持ち良さ気にサングラス越しにわずかに覗く瞳を細める。 〜♪ America's new bride to be Don't worry baby I'm safe and sound 〜♪ いつものコースと少しだけ違う道筋。 少年は見慣れない道を、ほんの少しの冒険気分とほんの少しの掘り出し物探し気分で走り抜ける。 今日は何かいつもと違うものが見られそうな気がする――そんな予感が朝から彼の頭を離れなかった。 緑の覆い被さる赤茶と緑の遊歩道は今朝方夢に見た光景と同じだ。 その遊歩道を夢の中の自分はやっぱり走っていた。 走って緩やかで長い上り坂を登りきった時、真っ白なまぶしい光の中に自分は確かに何かを見た。 それが何かは覚えていないが、自分にとって悪いものでは無かったことはなんとなく解っている。 むしろ――それは自分にとって心躍る、不思議に居心地のいいものであったような気さえする。 それが証拠に、この坂道をひた走る自分の心臓がいつも以上に跳ねているのだ。 これはきっと坂道のせいだけではない。 〜♪ Down in the dungeon just Peaches and me Don't I love her so? Yes she made me live again Yeah! 〜♪ いつものコースの脇に、この遊歩道を見つけたのも偶然。 夢に出てきたあの緑のあふれるこの道を目の端に捉えた瞬間、少年は吸い寄せられるように遊歩道へとハンドルをきっていた。 この坂道の上には、いったい何が待っているのか。 少年の足は自然と力強くペダルを踏んだ。 * * * * * ――野球場? 坂を登りきった時少年の視界に映ったものは、さほど大きくも無い草野球場だった。 グラウンドにはリトルリーグの少年たちが練習試合を行っていた。 少年は思わずフェンスに近づくと、試合の様子を眺める。 スコアボードに視線を走らせると、現在4回裏『本郷ブラックマーズ』の攻撃らしい。 得点は3対1で『巣鴨アイスドールズ』がやや押し気味といったところだろうか。 カウントは現在ワンアウトのツースリー*、ランナーは1・2塁、バッターは4番。 アイスドールズの狙いはやはりダブルプレイだろうが、ブラックマーズにとってもここは唯一絶好の攻撃のチャンスだ。 何度かサインを交換しピッチャーは振りかぶって、独特の大きなフォームで球を放った。 外角高め、ストライクコースだ。 キィイン!……ガシャン! 少し鈍めの音がしてボールはキャッチャー後ろのフェンスに激突する。 ――惜しい、ファールだ。 思わず耳からヘッドフォンをはずすと、少年はフェンス越しにホームを見つめた。 早いピッチャーだが、ブラックマーズのバッターも振り遅れてはいない。 ピッチャーが何度か首を横に動かした後やっと頷くと、再び振りかぶりボールを投げる。 今度は外角低め、しかしややコースが甘い――絶好球だ。 カキィイイイン! 力強く振り抜いたバットがボールを芯で捕らえ、澄んだ音と共に青空へと吸い込まれていく。 ワァ!! 思わずチームから歓声がわく。 打球はフェンスには届かず、しかし確実に右中間を抜けた。 その間に3塁ランナーがホームに帰り、1点を返してランナー2・3塁。 続くバッターは5番、以前チャンスは続く。 今度はピッチャーが素直に頷き、ゆっくりと振りかぶってボールを投げた。 内角高め、コースもまあまあ。 しかしバットは回っている、初球打ちだ。 ――まずい! キィイン! 辛うじてバットには当たったが打ち上げてしまった、打球はセカンドの目の前に落ちてくる。 ――ゲッツー*……。 ボールはホームへ的確に送球される。 ランナーが滑り込むがキャッチャーのタッチの方が一瞬早く、結果アウト。 ――惜しかったな…… 悔しげにグローブを取りに戻るランナーの姿を眺め、思わず少年は口の中でつぶやく。 「良ければあそこで見ていったら?」 「……!?」 突然、フェンス越しに声をかけられたことに少年は驚いた。 人が隣に近づいていたことすら判らないとは……。 ふと、知らない間に熱中してしまっていた自分に少年は驚いた。 「そこ、暑いだろ?見学ならあそこの屋根のあるところでしたらいいよ」 慌てて少年は声のした方を振り向く。 そこに立っていたのは自分よりわずかに背の低い少年だった。 ブラックマーズのロゴの入った帽子とシャツを羽織っているところを見ると、OBかコーチか何かなんだろう。 もしかするとその両方なのかもしれない。 「ん?どうした?遠慮するなよ」 再びかけられた声に、少年は慌てて頷いた。 ブラックマーズのシャツを羽織った少年の後に続き、サングラスの少年も隣にベンチに腰掛ける。 少年は改めてブラックマーズのシャツを羽織った少年の横顔を眺めた。 形のよい緩やかな弧を描いた眉毛、くっきりとした二重に澄んだ茶色の瞳、通った鼻筋、小さくやや厚めの赤い唇、そして僅かに日に焼けている肌の下には本来の肌の白さが垣間見られる。 美少年といってしまっても、決していい過ぎにはならない顔立ちだ。 顔立ちはやや童顔気味だが、年齢は自分より1つか2つ上だろう。 少年はサングラスの下の瞳をまぶしそうに微かに細めた。 僅かに心臓の動きが速い。 ――ああ、そうだ。白くてまぶしい光の中には…… 「君はアイスドールズの兄弟?」 不意にその明るい瞳が突如自分を振り返り、その視界に捕らえられたのを感じて少年は驚いた。 慌てて首を横に振る。 「あれ、でもブラックマーズの子達の親戚ってわけでもないよな?聞いたことないし」 少年は再び首を横に振った。 「じゃあただの見学?」 今度は首を縦に振る。 「そっか。リトルリーグの観戦にまでくるんだから、相当な野球好きなんだなぁ」 ブラックマーズのシャツを羽織った少年は、屈託の無い笑み浮かべて少年を見やった。 「ああ、悪い。俺は臨時でこの『本郷ブラックマーズ』のコーチをやってる だ。……ええと……」 「……司馬」 「ん?」 「司馬 葵……」 「司馬君か。司馬君は中学生?」 の問いに司馬はこくりと頷く。 「やっぱり野球やってるんだろ?」 再び司馬は頷く。 「守備は内野?」 司馬は驚いたように少しだけ眉を上げる。 「ああ、体のバネがね。そんな感じがしたんだ」 そういってが笑う。 「コーチィ!」 不意に司馬の視界が陰り、目の前にヘルメットを被りバットを抱えた少年が立った。 「ああ、次は佐々木か……」 の言葉に、司馬はスコアボードに視線を合わせた。 最終回、ブラックマーズの最後の攻撃だ。 点差はあれから動かず、相変わらずブラックマーズが1点を追う形。 カウントは2アウト走者1・3塁、打者は4番佐々木。 「おーおー佐々木、ヒーローに相応しい大舞台だな!」 そういっては佐々木と呼ばれた少年の頭をヘルメット越しにポンポンと叩く。 「コーチ、作戦は?」 佐々木少年は照れ隠しの為か、ぶっきらぼうに言い放つ。 「そうだなぁ……よし、これだ!」 「なに?」 「思いっきり振って来い!」 「えー!そんなの作戦じゃないじゃん!」 「何言ってる、れっきとした作戦だぞ。お前の打力ならきっとフェンスを超えられるさ」 は平然として言い放つ。 「うわー職務怠慢!ちゃんとコーチとしての仕事しろよ!」 「職務怠慢なんて難しい言葉知ってるな。まぁいいや、じゃあちょっとだけアドヴァイスをしてやろう。でもあくまで作戦は『思い切って振って来い』だからな」 はさも大儀そうに腕を組み、にやりと口の端を上げた。 「高木の投げる球のテンポは今までの投球を見てだいたい把握できただろ?」 「うん」 「多分な、高木はまだチェンジアップが完成していない。だからお前の打席には必ずスピードボールが放られるだろう。そこで狙い球は……外角低めだ。今まで見た中で、外角低めのコースが甘い球が多いな。だからお前は今までで掴んだテンポで外角低めを力いっぱい引っ張ればいい。多分……田原の配球からすると、初球に放ってくるだろう。初球から決めていけ」 「初球だね、がんばるよ」 佐々木はそう言ってヘルメットを被りなおすとバッターボックスへと向かう。 「……」 司馬は無言での横顔を見つめた。 「なぁ司馬君、俺じゃなくて向こうを見てろよ。面白いものが見られるぜ」 司馬は驚いて視線をバッターボックスへと向かわせた。 ――心臓に悪い……。 カキィイイイン!! 次の瞬間、今までで一番の快音が耳に響いた。 の言うとおり初球を引っ張った佐々木の打球が、目に染みるような青空に消えてゆく。 逆転サヨナラホームランだ。 ベンチのナインが歓声を発しながらホームベースを踏んだ佐々木を取り囲む。 「作戦成功だ。な、面白いもの見えただろ?」 ニヤリとが笑う。 まぶしい光の先に見えたもの、それが判った気がした。 司馬はすくりと立ち上がるとぺこりと頭を下げた。 「……また、きます」 「ああ、いつでも来いよ」 少年たちの歓声は、いつまでも司馬の耳に届いていた。 |
*ツースリー(2-3)……2ストライク3ボールの状態。 *ゲッツー……ダブルプレイのこと。 |
♪ “Now I'm Here” Words and music by Brian May |