THE DARK HALF−Side M

01−The PHANTOM

不意に視線が絡み付いたような気がした。
氷のように冷たくて、湖面のように澄んでいて、ほんの少し頼り無げな、淡い光を仄かに灯したあまりにも美しい瞳に、僕は柄にも無く魅入られてしまったのだった。
理知的な……それでいてどこか崩れた印象が、僕の心をくすぐる。
澄んでいる、静かな心。
しかしそれは無垢な純粋のそれではない。
純粋な……憎しみだった。
怒りと憎悪と悲しみ……そして、諦め。
瞳の中には、ありありと彼の感情が揺れている。
無気力な表情が対照的に、彼の瞳を強烈に彩っていた。
孤独。
そう、彼は孤独な表情をしていた。
孤独の上に覆い被さる、重い疑心暗鬼に耐えながら。
諦めという分厚いコートの前を掻き合わせ、悲しみという極寒の中をただ、独り。
僕は彼に一歩近づく。
生暖かい風が紅潮した頬を擽った。
なぜ、僕は彼に近づくのか? 
なぜ僕は彼に興味を抱いたのか?
なぜ、僕は彼の瞳から眼が……離せないのだろう――。
さらに一歩近づく。
相変わらず彼の瞳は僕を見据えている……妖しげな光をゆらゆらと灯しながら。
長い睫毛によって落とされた影が、彼の白い肌をより艶めかしく際立たせている。
僕は白い靄を掻き分けながら、少しずつ彼の元へと足を進めた。
足取りは嘘のように軽い。
ふわふわと雲の上に歩を進めたらこのような感じがするのかと、僕はぼんやり考えた。
……どのくらい歩いたのかわからない。
それでも僕の瞳は彼の瞳を捕らえたまま、放さなかった。
何かの引力に引き寄せられるように。
――陳腐な言葉しか出てきそうにも無い。
僕はしっかりと、彼の瞳を見据えた。
……驚いたことに、僕はまだ彼の瞳以外をしっかりと見たことが無かったことに今ごろ気が付く。
僕は彼の姿をまじまじと見つめた。
滑らかな曲線で縁取られた細面な輪郭、染み一つ無い美しい額に落ちかかる髪、緩やかな弧を描いた形の良い眉のライン、妖しく揺らめく光を灯す、切れ上がった瞳、くっきりと筋の通った鼻筋、しっかりと引き結ばれた赤い唇……どことっても完璧な美しさだった。
何かが言いたい……けれど、声が出ない。
僕は唇をかみ締めた。
たとえ喋れたとして、いったい僕は何を話そうというのか……? 
何かが言いたいという、そのことだけはハッキリしているというのに。
不意に彼の美しい唇がゆっくりと動いた。
まるでスローモーションのように、彼の唇は一言一言の言葉をなぞって行く。
なにを、言っているのだろう。
もどかしい思いが募る……。

「……骸さんっ!」
「……犬、ですか?」
犬に軽く揺すられて、僕は目を覚ました。
視界に移ったのは心配そうに僕を見下ろす犬の顔。
僕は軽く頭を振ると、ソファから起き上がった。
「すみません、少しうなされてたみたいらったから、つい……」
犬はすまなそうに頭を掻く。
「……いえ、構いませんよ」
あまり質の良くないソファで転寝をしてしまっていた所為か、身体の節々が軽く痛む。
「夢、見てたんれすか?」
「ええ、そうです」
犬の問いに短く答えると、僕はソファに座りなおし顎の下で指を組んだ。
彼は、何を言っていたのだろうか。
頭が覚醒してくるに連れ、その事が気にかかってくる。
転寝で気を抜いていたとはいえ、術士の僕の夢に入り込んでくるということは並大抵の人間に出来ることではない。
「犬、千種はまだ戻らないのですか?」
「はぁ……それがまだ……」
「そうですか」
「たかだか入金するのに、なんれこんなに時間がかかってるんれすかね、柿ピー」
苛立たしげに舌打ちをすると、犬はその場に胡坐を掻いた。
「何かあった……という事でしょう。しかし、千種ならある程度のことであれば一人で対応できますよ」
そう答えながらも、頭の中では先ほどの夢のことばかりを考えている。
偶然とは考えにくい。
あれは誰だ。
僕は夢の中の記憶を無理やり引き戻す。
しかし、その記憶はおぼろげで、確かに見たはずの顔さえ虚ろだ。
チャララー チャララー チャラララーラーラーラー♪
不意に、沈黙を破るかのように犬の携帯電話の軽快なメロディーが流れた。
「ん、柿ピーら!」
「出てください」
「何だよ柿ピー!遅ぇっつーの!何やって――……お前誰らっ!!」
「どうしました?」
犬の顔に焦りが見られる。
千種の携帯を他の誰かが使っているだろうことは予想に容易いが、相手の要求まではまだ解らない。
「犬、いったい……」
「……なんらと?!」
驚いたような声を上げて、犬が僕の瞳を見つめる。
しばらくの後、犬は無言で自分の携帯を差し出した。
「……誰ですか?」
「言いませんでした。替われば解るからって……」
替われば解る……僕の知り合いか?
「……もしもし?」
『やあ、久しぶり』
なつかしいような、聞き覚えのあるような声……しかし、思い出せない。
「……あなたは誰です?」
『寂しいな、覚えてないのか』
「流石に声だけでは」
『あんたたちの逃亡を手伝った者さ』
ああ、と僕は心の中で頷いた。
あの警護の中を、僕らだけで脱出するのは至難の業だった。
必然的に外部の手のものが必要となる……その役を担ったのが、RAINと名乗る男だ。
しかし、その男との交渉を僕は一切行っていない。
総て、交渉人を通して行っていた。
彼の声を懐かしいと感じるわけが無い。
「その貴方が何のようです?送金なら千種――その携帯の持ち主が行っていたはずですよ」
『寂しいね、本当に覚えていないのか』
「……どういうことです?」
『夢にまで、会いに行ったのに』
「……」
「む、骸さん……」
不意に、犬が僕の服の袖を強く引いた。
「『じゃあ、顔を見たら思い出してくれるかな?』」
そこには、気を失った千種を抱えながら窓に足を揺らして座る、一人の青年の姿があった。


「この世の中は、矛盾と不条理で成り立ってる」
まだ、10歳にも満たない年齢の少年が、非常に大人びた口調でそう言ったのを、僕はただ黙って聞いていた。
「結局、それが正義の道でなくても自我を通したほうが自由を勝ち取るのさ」
苦々しく、そう言ってその少年は唇を尖らせた。
「で、キミはどちらなの?自我を通す方?それとも……通せない方?」
僕は初めて彼の言葉に口を挟む。
「さぁ……どっちかな」
彼はぼんやりと空を見つめると、そう独り言のように呟いた。
「いつかは自由になる。でも今はまだ……駄目だ。まだ、力が足りない」
「そう、ですか」
「ここから抜け出すだけなら、方法はあるぜ?でも……それじゃあ本当の自由じゃない」
「へぇ、それはどういう意味で」
「なまじっかここを抜け出しても、追っ手が来る。逃亡生活じゃ自由は無い」
「なるほど」
「かといって、ここの総てを破壊しても、それじゃ事が大きくなりすぎる。それも駄目だ」
そういって少年――はその濡れた宝石のように輝く瞳を、暮れつつある紅い空へと這わせた。
「総てをコントロールする力……情報も、人間も……それを手に入れなくては駄目だ。それが出来てはじめて、オレたちは自由になれる」
そういいながらはひざを抱え、足首に取り付けられたタグ……実験体の管理証を忌々しげに指で弾いた。
「それまでは、飼われた振りでもしてやるよ。そしてその時が来たら……骸、お前もオレも晴れて自由だ」


「……、ですね」
「やっと思い出したか」
そう言うとは抱いていた千種を乱暴に犬に押し付けた。
「柿ピー!」
「死んでないよ。寝てるだけだ」
「てめえ!」
犬は千種をソファに寝かすと、毛を逆立てるようにしてに殺気を振りまいた。
「オレは何もしてないぜ?金は要らない、骸に会わせてくれって頼んだら、行き成り襲い掛かってきたから、寝てもらっただけだ」
の言うことは本当だろう。
恐らくが本気を出していたら、千種は生きてはいまい。
「……止めなさい、犬」
「けど!」
「お前では歯が立つ相手じゃありませんよ」
「なっ!」
「……僕だとて、必ずしも勝てるとは限りません」
僕が、あの時から強くなっているように、だとて強くなっているだろう。
もともと、有り余るほどの戦闘センスと頭脳を持っていたために施設に入れられていた男なのだ。
「おい、ちょっと待てよ。オレは別に戦いに来たわけじゃないんだぜ」
僕の言葉を遮る様に、はため息をついた。
「じゃあ、何しにきたんらっ!」
「約束」
「はぁ?」
「あの時の約束を果たしに、さ」
そう言うと、はにっこりと微笑んだ。
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